うぇぶで日記を書いたりするということ。そして、ネタ。

 先生。ネタって何ですか。無知な私に教えてください・・・。
 昨今はみこみこなーすが話題に為ったり、はじるすが話題に為ったりと話題性には事欠かないわけで、そういうのを語りたがる(あるいはいじりたがる)サイトなどたくさんあるわけです。
 しかし市場全体はシュリンクしてる状況でありまして。これは商品ではなく、ネタさえ消費できれば良しと見てよいのでしょうか。消費されるものは、ネタ。


 かつて、「大きな物語」があったときには、共通の土壌、価値観があり、認識を共有できました。しかし、今では価値観が多様化し、大きな物語もなく、あるのは、ただデータベース型消費*1のみです。それらは実際には相互参照するからみあった記号(群)であり、ただそれらのコンテクストでのみ意味を持つものですよあなた。
 古典的な、「大きな物語」のように、構造的な上位/下位は無く、極めて流動的で、オリジナルもシミュラクルも区別できないために、それらの記号は自己増殖することが可能ですよ。それが例えば時間的に短い期間でおこれば、祭りなどと呼ばれたりするわけです。
 大きな物語が不在であり、流動的な記号群から生まれた「時事ネタ(?)」が存在しる。それが例えばみこみこなーすであったりはじるすであったりした訳で、それらについて語ることで祭りに参加し、共有感覚というか連帯感を持つことができる*2という機能と構造が表れたわけですよ。
 もうちょっと発展させましょう。
 このようなネタはそのようにして生まれるのですか?;個人ががんばってネタを探しているのです。あるいは、個人そのものが、ネタのために生活を捧げるようにして生きるのです。
 テクノロジーにより情報発信のコストが劇的に下がり、誰もが情報発信可能な今日、個性的なものを発信し続けるというものは難しいものです。個人がごく個人的なメディアであるはずの日記をウェブに公開するということについても、それは個人的な語りと同時に読まれることを意識されたメディアでもありますが、その場において、誰でも書けるようなものを書くということは実存の危機をもたらします。すなわち、個人が代替可能であるという事実が突きつけられます。凡庸では生きられないのですよあなた。
 個性的であるためには、何らかの作為的・意図的な仕込み、すなわちネタが必要となってきます。ネタのために、自らをネタとして生きる、そのような方法すらありえます。たとえば、ウェブに書き込むためのネタを仕込むために、あえて何らかの行動を取られる方もいらっしゃるようです。*3
 他には、自らがいかにヲタクかを語りたがるいくつかのサイトがあります。ヲタクな語りをすることによって、自らをヲタク者として、ネタとして語るその行為そのものがアイデンティティとなっています。
 ただ、これは今日に限ったことではなくて、昔の表現者もそのように生きてたかのように思えます。例えば、文学者の梶井基次郎。文学者は結核で早死するものだという信念のもと、冬に裸で立ってたような人ですから*4
 かつては情報発信は敷居が高いものでしたが、今日では情報発信が容易になったことで、少なくともウェブの上では表現者として生きることが可能になりました。
 語りたいが、大きな物語はない。それなれば、自らをネタの発信者として個性的に生きる/自らのイタさをネタにする。ヲタク者はそのような方法で自己を表現しているように見えます。

*1:たとえば、萌え要素猫耳・メイド服 などの萌え要素と呼ばれる想像上のデータベースからの参照・引用により萌えが惹起される/萌えのトリガーとなる・・わかりにくい説明ですね

*2:共有感覚を持つことができるという機能は、多数の相互参照する記号群のひとつとして存在するという構造に起因する

*3:探偵ファイルなど

*4:ちょっと次元が違うかもしれません