毒性がわからなくても極微量なら安全

農薬ポジティブリスト制度の一律基準の値(0.01ppm)がどうやって決定されたか、あまり知られていないようです。
http://www.nikkeibp.co.jp/article/sj/20100126/207184/?P=5 からの引用です。

――農薬や飼料添加物などで「個別に残留基準が定められてない」ものに対し、絶対に安全量としてもっとも厳しい値である0.01ppmに決められたものですね。

唐木 この0.01ppmという一律基準は異常な厳しさで、隣の畑で撒いた農薬が風で流れてきて野菜に付いただけでも基準違反になる。これを科学的根拠に基づいた正常な基準値に、早く改める必要がある。

この0.01ppmという基準は「毒性学的懸念閾値」という概念を用いて算出されているものです。科学的根拠が無いというわけではありません。


わたしたちは数万〜数十万の化学物質に囲まれて生活しています。分析技術の発展に伴って、様々な化学物質があらゆるとことから、水道水中や血液中からも合成化学物質が検出されるようになりました。しかし、全ての化学物質について毒性データが完全に揃っているわけではありません。では、全ての化学物質について毒性データが必要なのでしょうか。毒性学者は、それは必要ではないと考えました。


「新規の化学物質でも、既知の化学物質と比べて毒性が大幅に変わるわけではない。既知の化学物質について、毒性の分布がわかれば、確率的に毒性の強さは予想できる。」
「じゃあ微量だったら問題ないと言えるんじゃないか。」
「問題無いものを、お金や時間や動物を使用して試験するの無駄だ。」
「試験せずに済めば、もっと優先順位の高いものにリソースを振り分けられる。」
「でもそれを行うためには、これくらいだったら安全、という量を科学的に決定して、行政に受け入れてもらわないといけない。」
「じゃあ検討しよう。」


ということで生まれた概念が、「毒性学的懸念閾値」です。


まず、発がん性物質について検討されました。344 種の化学物質について、げっ歯類の発がん性試験のデータを用いて、ヒトで一生涯摂取しても発がんリスクが100万人に一人となる量が求められました。その結果、ある化学物質を摂取したときに一人当たり0.15μg/day以下の摂取であれば、発がんリスクは100万人に一人以下となる確率が86%であるとされました*1
さらに、化学物質といっても発がん性物質ばかりではないことが考慮されました。全化学物質における発がん性物質の割合を10%とすると、ある化学物質の摂取量が1.5μg/day以下であれば発がんリスクが100万人に一人以下となる確率が96%であることが示され*2、1.5μg/dayが基準として採用されました。
毒性は、発がん性だけではありません。そこで神経毒性・発達毒性等の他のエンドポイントについても同様の調査がなされました。その結果、これらのエンドポイントは発がん性よりも感度が低く、1.5μg/dayを基準としている限りでは安全であることが示されました。


このようにして得られた1.5μg/dayという基準は、既に日米欧の規制当局で採用されています。
例えば、医薬品中の遺伝毒性不純物(発がん性が懸念される)について、EMEA(欧州医薬品庁)では1.5μg/day以下であれば毒性評価の必要はないとしています。本来ならば発がん性がある恐れが高いので0.15μg/dayが採用されるところなんですが、医薬品はベネフィットが大きいから、という理由でこの場合では10倍高いリスクが許容されています。
米国においては、FDAが食品包装容器からの溶出に関して、食品中0.5ppb以下であれば評価の必要が無いとしています。食品の場合、一日摂取量は水と食品合わせて3000g/dayが計算に用いられますが、3000g/day×0.5ppb = 1.5μg/day から0.5ppbが決められました。
日本では、残留農薬に関するポジティブリスト一律基準で0.01ppmが設定されていますが、これも農作物の一日摂取量が米を除いて150g/dayを越えないことから、150g/day × 0.01ppm = 1.5μg/day となるように設定された値です。だから「詳細な毒性がわからなくても、0.01ppm以下の残留農薬は安全」と言えるのです。


現在ではさらに拡張されています。
900 以上の化学物質について化学構造式からおおまかに低毒性〜高毒性と3つに分けることを行い(cramer classによる分類)、それぞれのクラスについて無影響量(動物実験で摂取による影響が見られなかった量)の分布とさらに安全係数100を適用した TDIの分布を求めました。この結果をもとに、「摂取量がこの量以下であれば95%の確率でTDIを越えない」とされる量がそれぞれ90, 540, 1800μg/dayと決定されました*3
この値はJECFAや食品安全委員会での食品香料評価で使用されています。香料の場合は、微量摂取であることと、よく似た構造のものがたくさんあるためにこのような評価がなされています。


曝露量が十分に小さいものについては、未知だから危険だとか、毒性データが揃ってないから危険というわけではないのです。毒性学的懸念閾値は、微量であれば毒性を評価する必要は無いとする、不必要な試験を避ける優れた概念です。